メソジスト教会公式議事録:
ハワイ・メソジスト・エピスコパルチャーチ
第17回年会( 1922年)公議事録から転載。
本川源之助師は、 1864年6月刊に日本国茨城県筑披郡小田村1に誕生した。
師は小学校を卒業した後、水戸市のNORMAL SCHOOLに進んだ。
4年間の学業の後、公立校で教える免状を与えられた。
真の教育は宗教に堅く立つ土台がなければならぬと信じるに至って間もなく、
師はキリスト教について学び始め、水戸市内のプレスピテリアン教会に於いて
バプテスマを受けられた。
1888年、23歳の師は遂に教育を断念し、イエス・キリストの福音を
宜べ伝える決心をされた。
そして、上京してプレスピテリアンの神学校である明治学院に入学した。
1892年、27歳にして師は按手を受け、東北地方の米沢市の
プレス ピテリアン教会の牧師となった。
またその頃、竹中百合子嬢と結婚され、 後に秋田市に移住された。
1897年、33歳の時、師はプレスピテリアン・ミッションボードにより
朝鮮に派遣され同地で2年間働かれた。
1899字、師はサンヲヲンシスコに渡米され、日本人間で働かれ、
2年後に帰日された。 東京で師は、訪日中のM.Cハリス
(私注=今1878年には札暁農学校の内村鑑三遣に挽礼を授けた方で
青山学院に長く働かれたメソジスト宣教師)と出会い、
ハワイでメソジスト教会の働きをするよう説得された。
ハリス師は1901年6月、師をホノルルに伴い キハタ師の後任として
リバーストリート教会の牧師となられた。
師がホノルルに来られた当時、同教会は、その会堂のあった地区が
ペストの理由で焼却されたため、ククイ・ストリートの
カワサキ ホテル内の小さい家屋で集会を行っていた。
師は直ちに新会堂建築 費拠金計繭を立てられた。
努力の結果、現在のリバーストリート教 会が建堂され、
複活祭に献堂された。
1905年11月:三浦宗三郎師が、日本からリバーストリート教会に
招聴され本川師はサウスキング教会に移られた。
サウスキング教会 は師を迎えて成長し始め、会員数は急速に増大した。
現在のサウスキング教会は、師のたゆまぬ労苦によって建立され、
1913年2月に献堂された。
本川師は教会の業に励むかたわら、地域社会の全体的福祉と
発展のために働くことも忘れた事はなかった。
師は数々の重要な地位を占め、1908年から没年に至るまで
ジャパン・エイド・ソサエティの会長を勤められた。
その協会が多年にわたり支えてきた病院の建物が
患者を受け入れるに全く耐えられないものとなっていたため、
病院新築のための拠金委員会が設立され、師が委員長に推された。
主として師の努力でハワイ・テリトリイ
(州、即ちステートとなる前はテリトリイと呼ばれていた。訳者註)
全域の多くの入、特に日本人から多額の脊付がなされた。
1917年8月、委員会は拠金のため師を日本に派遣した。
天皇自ら5千円を下賜され、融金総額は5万円に遣した。
1918年4月初日、帰途につく寸前、師は突然脳卒中で倒れ以後、 回復される事はなかった。
が、間もなく立派な新病院がクワキニストーロートに建築され、
それは師が後代のために為された働きの永遠の記念碑として
今も立っている。
(今もクワキニホスピタノレは、日系人の病院として知られている。 訳者君主)。
病床にある事2年、1921年4月22日午前6時、師は賞を受ける べく召されました。
師は多磨霊園に埋葬されました。
ヒロタ ゼンロウ
*注:写真は前,クワキニ病院史Chairman DR.George Suzuki Office.
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